(昭和53年7月22日伝産法指定) |
応永16年(1409年)能登の守護職として入国した畠山氏は、京都文化を積極的に取り入れ、指物、彫刻、蒔絵、製箔などの工芸の振興を図った。その後、前田利家の七尾入城と共に多数の職人が移り住み、仏壇の製作のみならず神社・仏閣の再興に活躍したと言われている。元和2年(1616年)の七尾の地図には、塗師[ぬし]町、木町、大工町等の名が見られる。七尾では、仏壇店のことを「ぬしや」と呼ぶことから、このころから仏壇製造業者が定着していたことがうかがえる。 |
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主に能登の農家向けに受注生産されてきたので、大型のものが多く、運搬に耐えるような堅牢な仕上がりになっている。 能登特産のアテ、ヒバは狂いが少なく、耐久力に優れるため、主材料として使われる。堅牢な造りにするため、二重鏡板構造と木地はすべて[ほぞ]組にしている。 特に精密な彫刻、なかでも障子戸の細かい彫刻をした付物彫りをコウ針と呼び、竹ヒゴではめ合わせた眼鏡障子は七尾独特である。蒔絵の肉盛りはすべて錆[さび]上げであわびの青貝を使用していることが特色である。 七尾以外では仏具として扱われる三卓[さんしょく](花鋲、仏器を置く3つの台)を仏壇の付属品として作る。
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